新選組遺跡めぐり
徳川幕府が265年間(1603~1868)の歴史を閉じた幕末、くずれゆく幕府を最期までささえつづけ、戦いぬいた武士の集団がありました。新選組です。
新選組は現代の公安警察のようなもので、京都守護職会津中将松平容保の下で、千年の王城を守護し、治安の維持に努めました。
新選組は、いつからいつまで京都にいたの?
新選組は1863(文久三年)3月13日に会津中将お預かりの浪士組として誕生しました。
1863年2月、幕府は、勤王倒幕派の浪士、清河八郎におどらされて二百数十名の浪士を集めて京に上らせました。清河はこの浪士達を天皇の直属軍にするつもりだったのです。幕府は、清河のたくらみを知って、あわてて浪士達を江戸に呼び戻しました。その中で、近藤勇や土方歳三など13人が、京都に残り、上洛する将軍家の警護をしたいと、会津中将に願い出ました。
それで、新選組は、京都守護職の下で幕府にさからう浪士達を取り締まり、都を警備するようになりました。
新選組創立時のメンバーは、次のとおりです。
近藤系 近藤勇・土方歳三・山南敬助・沖田総司・永倉新八・原田左之助・
藤堂平助・井上源三郎
芹沢系 芹沢鴨・新見錦・平山五郎・平間重助・野口健司
新選組隊士として知られている斎藤一・山崎烝などは、創立後間もなく参加しています。
創立時は芹沢鴨が実権を握っていましたが、あまりにも乱暴を働いたので、9月に土方歳三や沖田総司らに暗殺されました。
1864(元治元年)6月5日、祇園祭の宵山、旅館池田屋に40名ほどの倒幕派浪士が集まりました。近藤勇は沖田総司などわずか10名ほどで斬りこみました。後に土方歳三が24人を率いて合流し、多くの倒幕派浪士を斬り、逮捕しました。倒幕派の「風の強い夜に京の街に火を放ち、天皇を長州に連れて行く」という計画は、新選組の働きでつぶれました。
しかし、1866(慶応二年)1月、坂本竜馬の仲介で薩摩・長州の二大藩が同盟を結び、倒幕活動がますます激しくなりました。
1867(慶応三年)10月14日、十五代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、徳川幕府の政治は終わりました。ついで、12月9日、「王政復古の大号令」が出され、明治天皇を中心とする新政権が誕生しました。12月12日、将軍慶喜は京の二条城から大坂城へ移りました。京都守護職松平容保も同行しました。
12月16日、新選組は幕府の命令で京を去り、伏見を警備しました。
新選組誕生の地
- 新選組は壬生(みぶ)で誕生しました。壬生の郷士屋敷を借りて、「屯所(とん
しょ)」にしました。
「松平肥後守御預新選組宿」の看板をかかげた八木源之丞さんの屋敷は今も残っていて、京都市の有形文化財に指定されています。
芹沢鴨が暗殺された時の刀傷が屋敷内の鴨居(かもい)に残っています。
見学は9:00~17:00です。解説もしてくれます。
同じように隊士の宿舎となった前川荘司さんの屋敷は八木邸の向かい側です。見学はできません。
- 壬生寺には局長近藤勇の銅像と隊士の墓である壬生塚があります。
壬生寺の境内で、隊士の調練や武術指導をしました。
- 新徳寺は清河八郎が集会場に使いました。
- 光縁寺にも山南敬助・松原忠司・河合耆三郎ら隊士の墓があります。
注目は「沖田氏縁者」という墓です。若くして肺結核で死んだ天才剣士沖田
総司の恋人の墓とも、盟友山南敬助の愛人明里を葬ったとも伝えられています。
京都駅から地下鉄烏丸線に乗り、四条で阪急京都線に乗り換えて大宮駅で下車します。歩いて8分ほどです。
または京都駅から市バスに乗り、壬生寺道で降りると、徒歩1分です。
島原
- 島原は京都でただ一つの幕府公認の遊郭(ゆうかく)でした。今は、大門・揚
屋(あげや)の角屋(すみや)・置屋(おきや)の輪違屋(わちがいや)が残っています。
揚屋というのは料亭・宴会場です。置屋は遊女(太夫・天神・囲い)や芸妓を抱えていて、揚屋や料亭に送りこみます。
角屋では、新選組隊士もよく遊びましたが、長州の久坂玄端や品川弥二郎もひいきにしていました。明日の生命もわからない若者達は、遊ぶことでうさを晴らしたのでしょう。
新選組局長の芹沢鴨が「角屋のもてなし方が気に入らない」と大暴れした時の刀傷が残っています。
- 角屋内の見学は10:00~16:00です。定休日は月曜日ですが、月曜日が祝日の場合は翌日火曜日になります。
12月16日~3月14日、7月19日~9月14日は休館します。
1階と美術展示室の見学料は、大人1000円、中・高校生800円、小学生500円です。2階の特別公開の座敷は、事前の電話予約が必要です。見学料が別に大人800円、中・高校生600円かかります。小学生以下は見学できません。
ただし、お着物の人は見学料の割引きがありますよ。
お問い合わせと予約は、電話075-351-0024です。
③ 京都駅から市バスに乗り、島原口で下車します。歩いて10分ほどです。
JR嵯峨線(山陰線)丹波口からは徒歩7分くらいです。
西本願寺太鼓楼(たいころう)
1865(元治二年)3月10日、新選組屯所が西本願寺に移転しました。
隊士が増えて壬生の郷士屋敷では不便になったためと言われますが、長州びいきだった西本願寺に、いやがらせをするため、副長土方歳三が画策したとも言われます。
京都駅から歩いて約15分です。市バス9・28・75で、西本願寺前で降ります。
リーガロイヤルホテル京都
1867(慶応三年)6月15日、新選組屯所が不動堂村に移転しました。
境内で大砲や銃撃の訓練を行う新選組に困りぬいた本願寺が費用を出し、大名屋敷のような立派な建物を建築して移転してもらったといいます。
現在はリーガロイヤルホテルになっています。京都駅から歩いて7分です。
ホテル内の「たん熊北店」では、麺天心2970円、三段重天心4500円のランチがいただけます。皇家龍鳳では中華料理のランチバイキングもあります。
二条城
徳川幕府の京都の本拠地でした。ここで大政奉還の決議がされました。
京都駅から市バス101・9・50に乗り、二条城前で下車します。または、市営地下鉄烏丸線に乗り、烏丸御池で東西線に乗り換えて、二条城前で降ります。
黒谷金戒光明寺
京都守護職会津中将(肥後守)松平容保の本陣が置かれました。
黒谷金戒光明寺と華頂山知恩院は、徳川家康が「万一の危機」にそなえて築いた偽装(ぎそう)城だったと言われています。
京都駅から市バス100番に乗り、岡崎道で下車し10分ほど歩きます。市バス5番なら東天王町で降りて、徒歩約15分です。
三条小橋
幕末最大の戦闘といわれる池田屋騒動(事変)は、三条小橋の旅館池田屋で起こりました。新選組の監察(かんさつ=探偵方)山崎烝が薬売りに化けて、浪士達の密会を探りあてました。
現在は繁華街となってしまって、池田屋跡だけ残っています。
三条から四条にかけての高瀬川に沿って、長州や土佐の藩邸がありましたので、このあたりの料亭や宿屋には尊王攘夷浪士がよく集まりました。
元治元年6月5日当夜、「浪士の集会場所は池田屋か丹虎か迷った」と言われる四国屋丹虎は木屋町通三条上ガル、池田屋のすぐ近くにありました。日頃から土佐の尊攘浪士がよく出入りしていました。土方歳三は隊士二十余名をひきいて、丹虎をおそい、そこが空と知って池田屋に急行しました。
京都駅からは、市営地下鉄烏丸線で烏丸駅へ行き、阪急電車に乗り換えて河原町駅(四条河原町)で下車するか、烏丸線烏丸御池で東西線に乗り換えて三条駅で降ります。
京都御所
1863(文久三年)8月18日の政変で、幕府と御所の公武合体派が勢力を取り戻し、長州を京都から追放しました。さらに翌年の池田屋事変で多くの同志を失い、長州は名誉挽回(めいよばんかい)するため、軍をひきいて京に上りました。1864(元治元年)7月19日、「禁門の変」が起こりました。長州勢は京都御所を砲撃し、薩摩軍や会津兵と激しく戦いましたが、負けてしまいました。蛤御門(はまぐりごもん)の戦いが最もはげしかったので、「蛤御門の変」ともいいます。
地下鉄烏丸線今出川駅で下車し、5分ほど歩くと京都御所です。
高台寺月真院と七条油小路
新選組に途中から参加した伊東甲子太郎は、勤王倒幕派でした。新選組を倒幕派に転向させようとしましたが、うまくいかず、1867(慶応三年)3月20日、伊東一派は新選組から分離して、御陵衛士(ごりょうえじ)となりました。御陵衛士の本拠は東山高台寺の月真院におかれました。
御陵衛士には、新選組結成以来の同志藤堂平助も加わっていました。また、斎藤一はスパイとして参加しました。
近藤と土方は伊東達の分離を許さず、11月18日、伊東を近藤の妾宅に招き、その帰り道で斬殺しました。伊東の死体を七条油小路にさらして御陵衛士をおびきだし、全滅させようとしました。藤堂平助は戦って死にました。
かろうじて生き残った篠原泰之進らは、12月18日伏見街道墨染(すみぞめ)あたりで、近藤を銃撃して肩をうちぬきました。
東山高台寺は京都駅から市バス206に乗り、東山安井で下車し、5分ほど歩きます。
七条油小路は西本願寺のすぐ近くです。
祇園と木屋町・先斗町
島原と同じように、新選組の隊士も倒幕派の浪士も遊んだ花街です。今でも、しゃれた料理屋さんやレストランが多いところです。
木屋町や先斗町へは、四条河原町に出ると便利です。
祇園は市バスを利用して、バス停祇園かバス停東山安井から歩きます。