京都 坂本龍馬のお墓はどこ?竜馬ファンの絶対行きたいおすすめスポット

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坂本竜馬 京都の足跡

明治維新の大立者、坂本竜馬と京都は切っても切れない縁があります。京都における竜馬の足跡を追ってみましょう。

竜馬通り商店街

竜馬通り商店街

坂本竜馬の一生

坂本竜馬は、1835年11月に土佐藩(高知県)の郷士の次男として生まれました。生まれつき背中にたてがみのような毛が生えていたので、「竜馬」と名付けたといいます。

1853年、19歳で、江戸の千葉定吉(千葉周作の弟)の道場に入門して北辰一刀流を学びました。この年の6月、アメリカ海軍のペリーが黒船艦隊をひきいて浦賀に来航し、開国を求めました。

1854年、徳川幕府は二百余年続いた鎖国をやめて、日米和親条約を結び、外国と国交を開きました。ついで、イギリス・フランス・オランダ・ロシアとも和親条約を結びました。

しかし、当時の天皇、孝明天皇は開国に反対でした。多くの人々が「天皇を尊び、汚らわしい異国人を打ちはらおう」と主張しました。この主張を「尊王攘夷(そんのうじょうい)」といいます。坂本竜馬も尊王攘夷を唱える一人でした。

幕府の諸外国に対する弱腰な態度に、水戸徳川家のような親族をはじめ、薩摩や長州、土佐のように実力のある大名達は幕政改革を要求しました。

各藩の下級武士達も改革を求めて、過激な活動を始めました。竜馬も土佐藩の郷士武市半平太(たけちはんぺいた)に誘われて、土佐勤王党の結成に加わりました。

1862年に幕臣勝海舟(かつかいしゅう)と出会い、弟子になります。竜馬は勝の影響を受け、諸外国と対等につきあい、海運・貿易を盛んにすることを考えるようになります。勝とともに海軍操練所を創設しました。

しかし、1864年、池田屋騒動で新選組が多くの尊王攘夷の志士(尊攘浪士)を斬り倒し、8月の禁門の政変で幕府が勢いを取り戻すと、長州藩は朝敵(天皇の敵)になり、竜馬も幕府から追われる身となりました。

竜馬は「日本を今一度洗濯して」新しい体制を打ち立てるために、二大雄藩である長州藩と薩摩藩に同盟を結ばせようと努力を続けました。

1865年には長崎で亀山社中を結成し、その後の海援隊の基礎を築きました。亀山社中は海運と貿易を行うだけでなく、政治活動にも力を入れました。

1866年1月、竜馬の努力が実り、犬猿の仲であった薩摩と長州が手を結び、薩長同盟が成立しました。

1867年、竜馬は土佐海援隊を結成し、世界貿易に取り組む夢を広げます。また、「船中八策」を考え出し、武力による「討幕」とはちがう「倒幕」を主張し、議会政治を提唱しました。

1867年10月14日、十五代将軍徳川慶喜は大政奉還をおこないました。竜馬の提案を、土佐の前藩主山内容堂が慶喜にすすめたためです。

しかし、11月15日の夜、竜馬は河原町通り蛸薬師の醤油(しょうゆ)商近江屋の二階で、刺客におそわれました。明治維新という新しい日本の誕生を目の前にして、33歳で亡くなりました。

竜馬が愛妻お竜さんと出会ったのは?

1864年から亡くなるまで、竜馬は新選組や見廻組、京都所司代などに追われ、京都では、落ち着いて休むこともできませんでした。

竜馬が潜伏していたのは、東山の明保野亭(あけぼのてい)や「大仏」という隠れ家、そして伏見の寺田屋でした。

その頃、明保野亭は三寧坂下にありました。明保野亭は土佐藩とつながりが深く、竜馬をはじめ、土佐藩士がよく出入りしていました。

「大仏」は方広寺の大仏の意味です。豊臣秀吉の頃の方広寺は、今の豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂までふくむ広大な寺院でしたが、豊臣政権が滅びるとともに焼けてしまいました。三十三間堂近くの隠れ家だったので、そう呼んだのでしょう。

楢崎竜(ならさきりょう)という女性の父親は、幕府に反対する意見の持ち主だったために、1858年の安政の大獄で捕えられ、獄中で亡くなりました。お竜は東山の宿屋で働き、母親と4人の弟妹を養いました。男まさりの気の強い女性でした。竜馬と知り合ったのは1863年頃と思われます。

竜馬は自分が追われるようになると、お竜のことを心配して、潜伏先の一つである寺田屋に預けました。寺田屋の女主人お登勢(とせ)は度胸がよく、お竜を養女にしてかくまいました。竜馬はお竜の家族も安全なところに預けました。

伏見港公園‏にある龍馬・お龍の像

伏見港公園‏にある竜馬・お龍の像

寺田屋で危機一髪!

江戸時代、京都と大阪(当時は大坂)を行き来するのに、陸路のほかに船を使いました。京都の南、伏見からは客を運ぶ三十石船や酒や米を運ぶ十石船が出ていました。

1866年1月、薩長同盟を結ばせることに成功した竜馬は、伏見の船宿寺田屋でゆっくり休んでいました。そこへ、竜馬を捕えようと、伏見奉行所から大勢の役人がおし寄せて来ました。おふろに入っていたお竜はいち早く気づいて、裸にゆかたをひっかけただけで飛び出し、竜馬に知らせました。竜馬は役人達と闘って、重傷を負いながらも、逃げのびることができました。

竜馬のお墓はどこにあるの?

竜馬が親友中岡慎太郎とともに襲われて殺されたのは、河原町通り蛸薬師の近江屋の二階でした。少し前まで、三条木屋町の酢屋という材木商に隠れていましたが、安全ではないので移ったのです。

竜馬を暗殺したのは、新選組だとか見廻組だとか、いろいろ説がありますが、今もはっきりしていません。

竜馬と中岡の遺体は、現在の竜馬坂を登り、東山の霊山(りょうざん)の中腹まで運ばれて、ほうむられました。

現在、お墓は霊山護国神社にあります。京都の街々を見渡せる眺めのいい場所に二人のお墓が並び、銅像も立っています。二人の銅像は、円山公園の中にもありますよ。

霊山護国神社には、高杉晋作や木戸孝允(桂小五郎)など、明治維新で活躍した人達のお墓もあります。

霊山護国神社に行くには、東山安井でバスを下り、高台寺公園を通り過ぎて維新の道と呼ばれる坂を登って10分ほど歩きます。

竜馬の隠れ家で食べる? 泊まる?

竜馬がよく泊まった明保野亭は、現在、三寧坂の石段の途中にあります。京料理が手ごろな値段で食べられます。湯豆腐や湯葉料理など2千円~4千円です。竜馬御膳はボリューム満点で3300円です。電話は075-561-5693です。

京都駅から市バス207,206,100に乗り、清水道で下りて8分ほど歩きます。

伏見の寺田屋は歴史博物館と旅館になっています。竜馬が泊まった建物は、1868年鳥羽伏見の戦いで焼けてしまって、再建されたものです。

京都駅八条口から市バス19に乗り、京橋で下車します。または、近鉄京都線に乗り桃山御陵前で下りて、10分ほど歩きます。電話は075-622-0243です。

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