京都金閣寺の簡単に分かる歴史とアクセス 三島由紀夫の関係性とは?

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金閣寺とは

「金閣寺」で知られていますが、「北山(ほくざん)鹿苑寺(ろくおんじ)」といいます。禅宗の一派臨済宗相国寺の山外塔頭(たっちゅう)です。塔頭とは、本来、禅宗で、祖師や高僧を慕う弟子が、その墓所に寄り添うように建てた塔や庵のことです。実際には、禅宗の本寺の境内にある寺です。金閣寺の近くにある大徳寺も禅宗の寺で、龍源院・大仙院などの塔頭が有名です。

「金閣寺」として知られている建物は、鹿苑寺の舎利殿です。

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金閣寺は、いつ、だれが、建てたの?

金閣寺は、室町幕府三代将軍足利義満の山荘だったので、義満が建てたと思われがちですが、実は、もっと前に建てられました。

1224年に藤原(西園寺)公経が西園寺を建立し、山荘として使っていました。西園寺家は代々、鎌倉幕府と朝廷の連絡係「関東申次」を務めていましたが、鎌倉幕府滅亡後、御醍醐(ごだいご)天皇を山荘に招いて暗殺する計画がばれて、没落しました。

1397年、足利義満は西園寺家から山荘を譲り受け、改築新築して「北山山荘」としました。義満は将軍の座を譲った後も、大御所として北山山荘で政治全般を取り仕切りました。

1408年に義満が亡くなると、その妻日野康子(北山院)が1419年に亡くなるまで住み続けました。康子の死後、舎利殿以外の寝殿などは建仁寺や南禅寺に移築されました。1420年、山荘は禅宗の寺となり、義満の法名「鹿苑院殿」にちなんで「鹿苑寺」と命名されました。開祖は夢窓疎石師です。

1467年、応仁の大乱が起き、鹿苑寺の大半が焼失しました。江戸時代に入り、1649年に大修理が行われました。明治時代には、舎利殿が国宝となりました。

1950年7月2日、鹿苑寺の僧の放火により、金閣寺が焼失しました。第二次世界大戦の戦火にもあわず、終戦を迎えてほっとしている時でした。

1952年、政財界の人々も一般人も金閣寺再建を望み、再建修理が始まりました。1955年、金閣寺は見事に復元しました。ただ、焼失前と完全に同じというわけにはいきませんでした。

1994年には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録され、それ以後も定期的に解体修理などが行われて、美しく保たれています。

金閣寺とはどんな建物?

金閣寺は舎利殿ですが、室町時代を代表する楼閣建築の一つです。

鏡湖池(きょうこち)のほとりに建つ木造3階建ての建物で、初層と二層は構造上一体化しているので、「二重三階」と言えます。初層は素木仕上げで金箔は張られていません。二層と三層は外面全部に金箔が張られています。三層は内面も金箔が張られていますが、初層二層より小さく造られています。

春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の積雪と、四季それぞれの自然としっくり溶け合って、美しい姿を見せてくれます。

金閣寺へのアクセスは?

金閣寺は京都市北区金閣寺町1にあります。

市バスを利用するなら、京都駅前から101系統「二条城・北野天満宮・金閣寺行」に乗り、金閣寺道で下車します。そこから歩いて5分くらいです。

「金閣寺・北大路バスターミナル行」の市バスに乗っても、金閣寺道で下車します。どちらも、京都駅から金閣寺道まで40分ほどかかります。

地下鉄京都烏丸線を利用するなら、「国際会議場行」に乗り、北大路駅で下車します。金閣寺までは歩いて40~50分かかりますが、途中で大徳寺に寄ることができます。北大路駅から市バス「北大路バスターミナル行」に乗り、金閣寺道まで行くこともできます。

三島由紀夫の小説「金閣寺」と、どんな関係があるの?

作家三島由紀夫は、金閣寺放火犯をモデルにして、1956年10月に小説「金閣寺」を刊行しました。吃音という心身のハンディを背負った若い寺僧が金閣寺の美にとりつかれ、苦悩の末に放火するという過程を「私」の告白形式で書いています。

この小説は三島を日本近代文学の代表作家に押し上げ、海外でも高く評価されています。ただし、実際の放火犯は自殺しようとして未遂に終わりますが、小説の「私」は自殺を思いとどまり、生きる決心をします。

三島由紀夫は1925年生まれの戦後を代表する作家の一人です。代表作には「仮面の告白」「潮騒」「憂国」「豊穣の海(四部作)」などがあります。繊細で唯美的な作風でしたが、晩年は政治色を強め、民兵組織「楯の会」を結成しました。1970年11月25日、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地に出向き、憂国の心情を訴えた後、切腹して果てました。

ライター 佐野 恵子

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