日本の古都として有名な京都。観光客も日本の古き良き姿を一目見るために海外からも多くの観光客が訪れます。私たち日本人も京都といえば寺社仏閣などの落ち着いた雰囲気を持った風景を期待して、京都を訪れることでしょう。遠方から訪れる方で、わざわざ京都に訪れてずっとデパートでショッピングをしているというような人はほとんどいないのではないでしょうか。
しかし、そんな京都の魅力も自然とできているわけではなく、実は京都の尽力の結果で守られた風景であるのです。その風景を守るための手段の一つとして定められたのが京都景観条例です。それは、京都景観条例がどのようなものなのかを詳しくみていきたいと思います。
京都景観条例とはどういう条例なのか?
京都景観条例は2007年に制定されたものです。京都の変化にとんだ海岸線、春には桜、秋には紅葉と四季折々に様々な様相を見せる山並みなどの美しい自然や、見ているだけで敬虔な気持ちにさせられる寺院の堂々たる姿など、京都には多くの個性豊かな景観がみられます。しかしその街並みが、都市化の進展であったり、住む人々の間の価値観の多様化であったり、そのようなもの生活や生業に影響を与えることで、失われていきそうになりました。その変化の中で、50年先、100年先にまで古都京都が持っている魅力的な景観を守っていくためにはどうすればいいのか、と考えられたときに生まれたのがこの京都景観条例です。
その概要は、京都市内をまず21地域に分け、その地域ごとに規制内容を細かく規制するというものです。世界遺産にしてされている寺社仏閣を含んだ40近くの「視点場」を設け、眺望や借景保全のために看板類の大きさであったり、色味であったり、照明の色であったりというものを規制するというものです。それを実行するために、屋外広告などは地域に応じて広告面積基準を再規定したり、屋上看板や点滅式証明を撤去するなどといったような対処を取られました。それに加えて、建物の高さなどにも規制がかけられています。
それによって、市の中心部では景観に調和した看板や、シンプルな外観をした店舗などが多くなり、景観にある程度のまとまりを取り戻すことが出来たようです。これは京都を訪れる観光客にとっても好印象である場合が多いようで、その看板なども京都でしか見ることのできないものである場合があるので、それも京都らしさを演出しているという感想を抱く人も少なくはないようです。ビルから道路に突き出していた看板などもなくなったので、遠くまで見通すことが出来るようになったことなども好意的な意見のひとつとして挙げられるようです。
具体的にどんな対処がとられたか?
規制の対象として主に挙げられるのは、前述のとおり看板などです。では、どのような看板が規制されやすいのかというと、何よりもまず初めに挙げられるのが「派手な」看板です。具体的には、赤色がベースに使われているものや、原色がその看板に占める比率が高く、ビビッドな印象を与えるものなどは改善の対象とされるようです。
例としては、全国でチェーンを展開する「マクドナルド」の看板などがあげられます。

出典news.mynavi.jp
赤い下地に黄色のMのロゴマークの入った看板は、誰しも一度ならず見たことがあるものでしょう。しかし、京都市内のマクドナルドは下地が赤ではなく茶色になっており、明るさが抑えられています。そのため、通常よりも落ち着いた印象の看板になっています。同様に、「ケンタッキー・フライド・チキン」などでも下地の赤が茶色に置き換えられていたり、白になっていたりします。
また、居酒屋チェーンとして非常に有名な「鳥貴族」の看板もビビッドな黄色地に赤の文字のものではなく、白地に茶色い文字と非常に地味な主張のあまりない看板になっています。牛丼チェーンの「なか卯」も茶色地に白の文字になっていたり、白地に赤の文字になっていたりと、普段からは見慣れないカラーリングになっています。そのため、ぱっとみただけでは何の店かわからないというようなこともあります。また、新町通の店舗は、大正時代に建てられた近代建築の1階にあるため、金色の浮き文字で表記されているため、親しみやすいチェーン店という印象から、まるで格式のある和食料理屋のようなイメージにがらりと変わっています。
八坂神社前の「LAWSON」の看板は青地に白の文字ではなく、白地に黒の文字で抜かれているので、非常にシックな印象になっています。まるで行灯に文字が書かれているような印象があるので、その通りの空気にマッチしたものになっています。
最後に
景観保持のための規制というのは、ある一面ではいいものなのかもしれません。緑豊かな場所にビビッドな看板や照明があったら、たぶん現実に引き戻されてしまうようで気分が乗りきらない、といったようなこともあるでしょう。しかし、それを画一的に規制してしまうことで、さまざまな店が築き上げてきたイメージを壊してしまうという一面も確かに存在します。どれだけ個性を認めながら町の空気と混ざり合わせていくことが出来るか、というところに着目して、よりよい対策が取られることを私は期待したいと思います。