京都 八木邸の芹沢鴨が柱に残した刀傷とは?新撰組の歴史に触れる旅

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新選組屯所・壬生八木氏邸

出典:www.jalan.net

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幕末の京洛を鮮血で染めた武装集団、新選組。

衰退していく徳川幕府の最強軍団として活躍しましたが、その始まりは、洛西壬生村の郷士、八木源之丞の屋敷だったのです。

今、八木家は御菓子司「京都鶴屋」と名乗り、和菓子を販売しています。

新選組にちなんだ名前のお菓子がいろいろありますよ。

八木邸へのアクセスと見学

京都鶴屋鶴寿庵 京都市中京区壬生梛ノ宮町24  TEL.075-841-0751

[アクセス]

JR京都駅から市バス28に乗り、壬生寺道で下車。徒歩3分です。

阪急京都線河原町駅または烏丸駅から乗り、大宮駅で下車。徒歩10分です。

[見学]

見学時間            9:00~17:00(受付16:30まで)

ガイドさんが、くわしく解説してくれます。

見学料                中学生以上 抹茶・屯所餅付き1,000円

中高生   見学のみ     600円

八木家とは・・・?

もともと但馬(たじま=兵庫県)の出身で、鎌倉時代初期には、源頼朝(みなもとのよりとも)に仕え、富士の裾野の巻き狩りでは、白猪を射止めるなど大手柄を立てました。八木家の紋「三つ木瓜」は、頼朝から拝領したと伝えられます。

室町時代の末、天正年間(16世紀末)に洛西壬生村に住み着きました。

江戸時代には、壬生村の郷士10家ほどとともに、村の経営や壬生狂言の開催に深く関わりました。代々、村の行司役も務めました。

京都所司代とも関係があったようです。

このような立場から、新選組屯所になったのでしょう。

新選組誕生

嘉永6年(1853)、ペリーはアメリカ軍艦四隻を率いて浦賀に来航し、徳川幕府に開国をせまりました。

徳川の泰平の世は250年も続きましたが、幕府の政治体制は時代の変化に合わなくなり、いろいろな問題が生じていました。ペリー来航で、世の中はさらに騒然となり、幕府政治を批判する大名や武士達が現れ始めました。

尊王攘夷(天皇を敬い、外国を打ち払う)を主張する人々が増え、幕府に反抗するようになりました。特に「尊攘浪士」の活動に、幕府は手を焼きました。

そこで、文久3年(1863)2月、幕府は浪士達を集めて「浪士組」を作りました。

「上洛する十四代将軍家茂を警護する」名目でしたが、実際は「野犬を集めて、一つの檻(おり)に入れる」というものでした。

浪士は江戸で募集しましたが、234人も集まりました。

文久3年2月23日、234人の浪士は上洛して、洛西壬生村の八木邸をはじめとする郷士屋敷に分宿しました。

ところが、この浪士組のアイディアは、倒幕派の尊攘浪士清河八郎から出たものでした。清河は浪士組を「天皇の直属軍隊」にして、倒幕の役に立てるつもりでした。

清河の企(たくら)みを知って、幕府は慌て、口実を設けて浪士組を江戸に呼び戻しました。清河も考えがあって、江戸に帰ることを承知しました。

しかし、13人の浪士だけは「京にとどまって将軍家を警護し、攘夷の先駆けとなる」と主張しました。

近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・井上源三郎・永倉新八・原田左之助・藤堂平助の8人と、芹沢鴨・新見錦・平間重助・平山五郎・野口健司の5人です。

この13人は、京都守護職会津中将松平容保に頼み込み、「京都守護職御預(おあずかり)新選組」として、市中警護の役目に就きました。

13人は、偶然、八木家の離れに泊まっていたので、八木家が「新選組屯所」になりました。

新選組は、幕末における特別警察隊のようなもので、京都の治安維持とテロ対策に努めました。

新選組の結成人数については、13人説の他に、17人説・24人説があります。

「新選組」の名も、文久3年8月18日の政変後に賜ったとする説もあります。

新選組は、隊士を募集して人数が多くなると、八木家だけでは足りなくなり、八木家の南隣の南部家や、坊城通をへだてた前川家の屋敷まで占領するようになりました。

前川家も南部家も、新選組に屋敷を空け渡して、他へ移りましたが、八木家は行司役など重要な役目を務めていたので、新選組と同居を続けました。

現在、前川邸も「新選組屯所跡」として保存されていますが、見学はできません。

慶応元年(1865)3月に西本願寺へ移転するまで、新選組屯所は八木家にありました。

八木家に残る刀傷

新選組は近藤勇の一派と芹沢鴨の一派に分かれていました。

近藤一派は八木家から前川邸に移り、八木家には芹沢一派だけになりましたが、八木家の離れから母屋まで、図々しく使っていたようです。

特に芹沢鴨は乱暴だったので、「試し斬り」と称して、八木家の離れの床柱に斬りつけたり、唐銅(からかね)の火鉢に斬りこんだりしました。

いまでも、八木家の柱に刀傷が残っています。

出典:sendo.fc2web.com

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芹沢鴨達の乱暴が目に余るようになり、会津藩では、近藤勇に芹沢の始末を命じたと言います。

文久3年9月18日、土方歳三・沖田総司らは近藤の命令で芹沢鴨を暗殺しました。芹沢が八木家の離れで眠っているところを襲ったのです。平間重助と平山五郎も一緒に襲われましたが、平間だけは無事に逃げたようです。

どしゃぶりの雨の夜の襲撃だったので、戦闘も激しく、その時の刀傷が八木家の離れの鴨居などに残っています。

浅黄色の隊服は、壬生の色

壬生は、今でこそ市街地ですが、その頃は都の西のはずれで、畑地が多かったのです。湧水に恵まれて、壬生菜・菜種・藍(あい)ができました。

壬生の藍で染めると、きれいな浅黄色(あさぎいろ=水色)になります。

新選組隊士が着ていた「だんだら染め」と呼ばれる隊服(そろいの羽織)は、浅黄色の地に白く山形を染めぬいたものです。

この浅黄色は、壬生の色なのです。

足を延ばして島原へ

壬生の八木家から南へ歩いて行くと、昔の遊郭「島原」へ出ます。20分くらいかかります。

島原では、新選組隊士がよく遊びました。

島原には大門やお茶屋さんの建物が残っています。

「角(すみ)屋 もてなしの文化美術館」があり、内部が見学できます。予約してから行くといいですよ。

出典:4travel.jp

出典:4travel.jp

角屋もてなしの美術館 TEL.075-351-0024

京都市西新屋敷揚屋町32

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